年賀状
- Date
- 2017/12/20/Wed 23:50
- Category
- いさむ白書
今年も早いものでもう一年が終わろうとしている。
年の暮れ。 そう、師走だ。
さすがの師匠達も忙しさのあまり走り出すということから師走というらしいが、
この忙しい年の瀬にさらに追い討ちをかけるように年賀状というものがある。
本来は年が明けてから書く物であったのだろうが、いつからか受け取る側の事を考え正月中に届くようにと、暮のうちに書くものに変わってきたようだ。日本人らしい気配りの精神ともいえるだろう。たしかに年賀状とは煩わしさもあるが、大切にしたいこの国の文化の1つだ。
ところがこの年賀状を出すという風習自体、年々減ってきているのは事実だろう。僕自身ここ数年は新規で出す相手を増やすことはせず、出すのは決まって昔から出している相手のみである。
もちろん中にはEメールに切り替えた相手もいる。
よくよく考えてみると、会う頻度が高い相手ほどEメールに切り替えていて、
親戚関係を除いて、今でも年賀状でやり取りしているのは、中々会うことが出来ない、そんな方ばかりだ。
そう。年賀状だけのお付き合いというやつだ。
過去に何かのきっかけで年賀状のやり取りをはじめて、そのまま現在に至るような関係。
普段の生活では何一つ接点が無いが、年に1度だけお便りを出し合うようなそんな不思議な関係。
誰にでも一つや二つあるのではないだろうか…。
少年が少年から青年になろうかという15才の夏、僕はかねてから夢だった一人旅に出た。
住んでいる街から千キロほど離れた母親の故郷までの一人旅だ。
当然、鉄道を利用しての旅だったのだが、利用した列車ほぼすべて各駅停車。
僕のような学生に金銭的余裕などあるわけも無く、ホテルなどは使わず夜行列車と駅ネ(駅のベンチで寝ること)で夜を明かす。
そして、わざわざ遠回りして途中下車しながら、一週間くらいかけて目的地を目指した。
さすがに五日目くらいになると寂しい気持ちもむくむくと現れる。
たまたま通りかかった家の食卓の窓から、お味噌汁のいい香りと共に夕飯時の楽しげな談笑が聞こえてきた時には、これがホームシックかと家族が恋しくなりこみ上げてくる物があった。
でも、時刻表と地図とをにらめっこして、計画を立てて自由に動く旅はたった一人だったけれど、気楽で楽しいものだった。
そんなプチ放浪旅もこの日いよいよゴールを迎える予定だった。
とは言っても目的地である母の故郷は、まだこの先の港から船で更に三時間ほどかかる離島なのでまだまだゴールは遠い。
港に向かうローカル線に乗っていた僕は時刻表を素早くめくり、もう1本後の列車でもじゅうぶん船に間に合う事を知る。
そして、この旅最後の途中下車をする事にした。
この途中下車をするという行為、最近はあまり馴染みが無いかもしれないが、当時は有る程度の長距離のキップ(乗車券)を購入するとその途中にある駅には途中下車可能で、しかも有効期限もかなり長かったと記憶する。
さてその途中下車する駅を選ぶ基準なのだが、もちろん車窓を眺めて決める事もあるが、ある意味直感やひらめきに頼るところが大きかった気がする。
この場合もそうだった。駅名で決めたのだった。
「江田浜」(仮名)というその駅名、特に「浜」の部分に惹かれ、僕はふらっとホームに下り立った。
きっと白い浜辺があって青い松とのコントラストが美しいだろうなあ。
この旅で見たいくつかの美しい光景を勝手に頭の中で合成し、ぼんやり考えながら浜辺を目指したが、そこにあるのは護岸工事中のいつも近所で見ているような海辺の景色だった。
たしかに昔は浜だったのだろうな。今回ばかりは直感が当たらなかったようだ。
少々落胆したが折角なので付近を散策することにした。しかし、とり立てて観るような所も無かったし、真夏の日差しが堪らなく熱かったので、先ほどの駅に戻ることにした。
「江田浜」という駅の周りは特に何があるというわけではない。
駅に寄添うように「江田浜食堂」(仮名)と看板を出した小さな店が一軒見えるだけで、あとはねぎ畑の真ん中に単線の線路が真っ直ぐに伸びているだけだ。
たまにディーゼルカーや貨物列車が油くさい臭いを残して過ぎ行く、どこにでもありそうなローカル駅だ。
二本の鉄のラインがご丁寧にも炎天下のなか、下からも二つ太陽を反射し照り付けてくる。
兎に角暑かったので駅で水道水をがぶ飲みしていると、傍らから声を掛けてくる人があった。
顔をあげて見ると、人の良さそうな中年の男の人が笑顔で話しかけてくるのだ。白髪の混じり方から50手前といったところか。
方言も混ざるのでわからないところはあったが、その話し方や表情などから悪い人でないことは直ぐに分かった。
話の内容はどこから来たとかどこへ行くとかそんな他愛も無い話ではあったが、恐らく普段は人影も疎らなこの駅に見たことの無い少年が立って居るのを不思議に思い、あるいは心配して声を掛けてきたのであろう。
そして、僕の目的がこの先の港から船に乗って母の故郷に行くことだと知ると、まあ暑いからと僕を自宅に招いてくれたのだ。実際には宅というか店だったが。
「江田浜食堂」と先程見た看板を横目に暖簾をくぐると中に奥様と思しき女の人が居て軽く会釈を交わす。
ご主人は暖簾を仕舞いながら「何にも無いけどこれからうちらもお昼だから一緒に食べていきなさい」と昼食まで誘ってくれた。
僕は「次の列車で港に行くので」と遠慮すると、車で送るから大丈夫と言いながら秋刀魚焼きとご飯とお味噌汁を持ってきてくれた。
初めて会って数分後の昼食会だ。
ましてや奥様と思しき女の人とは、一言も話していないまま始まった不思議な昼食会だった。それでも今までの道中の事や、これから行く母の故郷の島の話などするうち徐々にだが自然と会話も弾んだ。何より久しぶりに食べた温かいご飯やお味噌汁、そして焼きたての秋刀魚が美味しかった。
温かい食事をご馳走になった後、船に間に合うようにご主人の車で港まで送って頂いた。ご主人は運転しながら、釣りの話や最近出来た大きな橋のことなどを僕に笑顔で話して聞かせてくれた。
そして、僕は船に乗り目的地である母の故郷の島に予定通り夕刻到着し、僕のプチ放浪旅は見事ゴールを遂げたわけだ。
その後数日間は母の実家でお世話になり、暫く島の夏を楽しんだ。
旅から帰宅してからも「江田浜食堂」で感じた御厚意は忘れることが出来なかった。勿論あの時、港まで送って頂いた時に深く頭を下げ感謝の意を伝えてはいる。
全くの赤の他人。しかも出会ってすぐの見知らぬ少年に無償の愛…というとやや大袈裟だが無償の御厚意を注いで頂いたという事が、都会育ちの自分には理解し難いというか経験の無い事だったのだ。
そんな夏も終わり、秋から冬へと季節は変わり、年の暮れ師走に。
僕はあの時の感謝の気持ちを年賀状にしたため送ることにした。
普段、手紙などは書く習慣が無いので、ましてや礼状などとなるとかなり取っ付きにくかったが、年賀状ならば毎年書いていたので筆を執りやすかった。
ところが、肝心な住所氏名も分らなかったので、住所は「江田浜駅」で調べ、宛名は「江田浜食堂」と書いて送った。
きちんと届くか不安だったが、無事に年賀状が届いたらしく、年が明け我が家へも返信が届いた。
届いたその年賀状には正しい住所や御名前も記されていたので、その翌年からは宛名は御名前で差し出したが、やはり「江田浜食堂」の名前は連名で添えた。
そうして始まった年賀状のやり取りは、今に至るまで数十年続いている。
十年ほど前に母方祖母の法事の為、母の故郷の島へ行くことがあった。
折角なのであの夏以来「江田浜食堂」を親戚や家族とともに訪れてみた。
25年ぶりの訪問である。
勿論、前もって連絡してからの訪問だったが、あまりにも時が経っている為はじめは戸惑うご主人と奥様だった。しかし、毎年年賀状だけはやり取りしていたので話も早く、もちろん当時の事もよく憶えていてくれて、会話も弾みついでにお酒もすすみ、楽しいひと時が過ぎた。
年にたった一回お互いを行き来するあの小さな紙が、こんなにも長い間人と人を結びつける力があるのだなあと不思議に思ったものだ。
少年の面影はすっかり消えてしまったであろう僕に向かって、当時と変わらない笑顔で接してくれるご主人と奥様にまた更なる感謝と郷愁の想いを強くしたのを今でも憶えている。
先日、部屋の書類を整理していると、ある葉書に目がとまった。
忙しさにかまけていて確認していなかったのだ。
おや、と思い手にしたその葉書は全体に薄墨色の字で書かれ一目でそれと分かるものではあるが、差出人を見てはっとした。
奥様から届いたその喪中葉書には今年ご主人が亡くなった事が書かれていた。
数年前の年賀状でもうお店は閉めたと書かれ知っていたが、僕の頭の中にはすぐさま、あの暑かった15才の夏の「江田浜食堂」が蘇り、ご主人と奥様の笑顔がいつまでも消えなかった。
銀杏の葉が舞う街並みを歩きながら、喪が明ける再来年にはまた年賀状を出そうと僕は思った。
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